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知ったかぶりのクラシック


数多くの傑作を残した東欧の巨匠

プロコフィエフ
ピアノソナタ第七番

世界を舞台に活躍した作曲家兼ピアニスト!
現代的な和声から親しみやすい旋律まで、多岐に渡るジャンルで数多くの傑作を残した東欧の巨匠!!

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)はロシア帝国領、現在のウクライナ出身の作曲家です。
《ペーターと狼》や《ロミオとジュリエット》といった日本のお茶の間でもでお馴染みの楽曲を手掛けたことでも有名です。
ピアニストとしての活動も盛んに行っており、現在でもプロコフィエフ演奏のCD等が出版されています。

プロコフィエフは5歳で作曲を始め、9歳の時には最初のオペラを完成させる等、若くしてその才能を発揮させます。
名門サンクトペテルブルク音楽院に13歳で入学して作曲、ピアノ、指揮を学び、またリムスキー・コルサコフに師事したとも伝えられています。

音楽院卒業後は精力的な音楽活動を続ける一方、1917年に共産主義革命(覚え方=生稲{1917}晃子がロシア革命)が起こり、亡命を決意します。
シベリア鉄道でモスクワを発ち、1918年(大正7年)の5月31日に敦賀港から来日を果たします。

ヨーロッパの大作曲家が日本を訪れるのは初めてのことで、京都・奈良観光に加え、リサイタルも数回行いました。
またこの時期のインタビューでは、スクリャービンやラフマニノフ等、同郷で同世代の音楽家の才能を賞賛する発言等が記録されています。
プロコフィエフには当時の日本文化はロシア・ヨーロッパとは随分懸け離れたものに感じられ、自身の作品に影響を及ぼすものだったと伝えられています。

その後アメリカ・フランスを拠点に音楽活動を続け、様々な傑作を残していきましたが、1933年には再びソビエトに戻り、ショスタコーヴィチらと共にソビエト音楽界をリードしていくことになります。
帰郷後、所謂ジダーノフ批判により芸術統制の対象になりますが、円熟期の作品は現在でも非常に演奏頻度が高いとされています。

1953年、偶然にもスターリンと同じ日に永眠。
62歳の生涯を閉じました。

 

この《ピアノソナタ第七番》は1943年にスヴャトスラフ・リヒテルによって初演されました。
プロコフィエフは9つのピアノソナタを残しましたが、この七番は演奏される機会も非常に多く、また初めて初演を他のピアニストに託したピアノ作品としても有名です。

第一楽章 Allegro inquieto
6/8拍子の印象的な主題(楽曲を作る上での中心となる旋律)、現代的な和声、それから一定に刻まれるリズムが特徴的です。古典的なソナタ形式(2つの対比的な主題を持つ形式)を踏襲しています。

第二楽章 Andante caloroso
第一楽章とは対照的に穏やかで美しい旋律を基調とした楽章です。静かに始まり、中間部で盛り上がりを見せ、また静かにフェードアウトしていきます。

第三楽章 Precipitato
7/8拍子の非常に速い楽章で、打楽器的な奏法と正確なリズムが必要とされます。
演奏時間も3〜4分と短く、リサイタルでのアンコール曲として使用されることも多いです。
第一楽章を連想させるようなモチーフが現れるところに思わずニヤリです。

 

それではお聴き頂下さい。
プロコフィエフ《ピアノソナタ第七番》


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