Watchburg Music
Cover Photo

知ったかぶりのクラシック


ミッシングリンクを語る珠玉の名曲

リスト
死の舞踏

ピアニストとしてのリストと作曲家としてのリスト、ミッシングリンクを語る珠玉の名曲!

フランツ・リスト(1811-1886)はオーストラリア帝国領内ハンガリー王国出身の作曲家であり、また歴史上最高のピアニストとも称されています。
(ただし、残念なことに彼の演奏音源は一切残されていませんので、現代のピアニストと演奏能力を比較することは難しいです)
またリストはハンガリー出身であるにもかかわらず、ドイツ系住民が多数を閉める地域に生まれたため、母語はドイツ語で、生涯ハンガリー語を習得することはなかったと言われています。

幼少の頃から類まれなる音楽の才能を発揮し、11歳ではウィーン音楽院に入学し、映画『アマデウス』で有名になったアントニオ・サリエリや、ピアノ練習曲でチビッコたちにもお馴染みのカール・ツェルニーに師事します。
その後、超絶ヴァイオリニストのパガニーニの生演奏を聴き、「僕はピアノのパガニーニになるぞ!」と一念発起。
自らも超絶技巧を極めんとして修行に励む中、『超絶技巧練習曲』や『パガニーニの主題による大練習曲』などピアノ曲を中心に作曲していきます。

また同時代の作曲家、ベルリオーズ、ショパン、メンデルスゾーン、シューマン夫妻とも親交があり、19世紀初頭に如何に突出した作曲家達が狭い地域に集まっていたかが窺えます。
(ちなみに日本は江戸後期、大塩平八郎の乱とかの頃です)

演奏活動に力を入れていたリストはヨーロッパを演奏旅行で回り、今のリサイタル(独演会)形式のコンサートを一般に定着させたと言われています。
その高い演奏技術と甘いルックスで世の女性をとりこにし、アイドル的な人気を誇りました。
『リストマニア』と呼ばれる熱狂的な女性ファンは、リストの演奏中に失神することもしばしば。

モテてモテて仕方のないリストは多くのスキャンダルも巻き起こしました。
結果女性問題に端を発し、複雑な経緯を経て、1848年にはヴァイマールへ移住し、宮廷楽長として作曲に専念することになります。
この時代はリストの曲に占めるピアノの割合は徐々に少なくなっていき、多くの管弦楽曲を残します。
『交響詩』と呼ばれる単一楽章の表題音楽(テーマやストーリーに沿って作られた楽曲)を数多く残したため、リストは交響詩のパイオニアとしても名を馳せています。

1859年に宮廷楽長を辞任、1861年にローマに移住してからは、キリスト教を題材にした音楽や当時のクラシック音楽の和声から大きく離れた音楽を作曲していきます。
その一方で、この時期の作品はピアノの演奏が比較的容易なものが多いです。

他にも歴史上最も性格が悪い作曲家と言われるリヒャルト・ワグナーとのエピソードも有名です。
リストはワーグナーの才能を大いに評価していおり、そのため指名手配中のワーグナーがスイスへ亡命する際に手助けをしました。
そんなワーグナーはその後、リストの弟子の指揮者ビューローと結婚していた娘コジマと不倫の末に結婚します(ちなみにワーグナーは既婚者)。
それにもかかわらずリストはワグナー派VSブラームス派の音楽論争に於いてはワーグナー派を支持したため、感激したワーグナーは益々自信を深めていったとのことです。

 

この《死の舞踏》は、1849年に一度完成され、その後改訂を繰り返し、1865年に上記のビューローによって初演が行われました。

この曲は協奏曲(独奏者とオーケストラの対比を中心とした管弦楽曲)と交響詩(単一楽章の表題音楽)の性格を併せ持った曲で、最大の特徴は曲全体がグレゴリオ聖歌の『怒りの日』の旋律を元にした変奏曲だということです。
この『怒りの日』は歌詞の内容、それからベルリオーズが『幻想交響曲』の第五楽章に引用して以来、死を意味するメロディとして多くの作曲家の作品に取り入れられています。

ちなみにグレゴリオ聖歌『怒りの日』は如何のリンクより参照して下さい。
(いつか機会があったらグレゴリオ聖歌も取り上げてみようかと思います)

リストは当時としては非常に長命であったためか、初期のピアノ中心の作品、中期のオーケストラ作品、後期のキリスト教的で西洋音楽から外れた和声を持つ作品、と時期によって作風に大きな違いがあります。
この曲はピアノ曲全盛の1840年代に書かれ始めて、ヴァイマールを離れた後の1865年に最終改訂をしたためか、それら3つの時代要素がちりばめられた作品となっています。

それではお聴き下さい。
フランツ・リストで《死の舞踏》


記事一覧へ戻る