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知ったかぶりのクラシック


オーケストレーションに込められた『和』の心

黛敏郎
打楽器協奏曲

鬼気迫る旋律!
無駄の削ぎ落とされたオーケストレーションに込められた『和』の心!!

黛敏郎(1929-1997)は横浜生まれの作曲家で、戦後の日本音楽界を代表する作曲家の一人です。
東京音楽学校(現東京藝術大学)で伊福部昭らに学び、卒業後は以前紹介した芥川也寸志、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成。
以降、本格的に作曲家としての活動を始めることになります。

50年代にはモダンジャズ、ミニマリズムや電子音楽といった音楽手法やテクノロジーをいち早く自身の作品の中に取り入れて、日本音楽界での地位を確立していきます。
中でも代表曲の『涅槃交響曲』(1958)の中では、鐘の音をコンピュータでデータ解析し、それを再びオーケストラの生演奏で再現するという手法を用いたことで有名です。

またクラシック音楽以外にも溝口健二監督の『赤線地帯』(1956)や三島由紀夫原作の『炎上』(1958)など多くの映画音楽やテレビ番組の音楽などを手掛けていきます。
特に『スポーツ行進曲』(1953)はジャイアント馬場やガッツ石松の入場曲にも使われて、圧倒的な知名度を誇っています。

スポーツ行進曲
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最新の音楽テクノロジーにも注目する一方で、黛は日本の伝統文化や『和』の精神を作品の中に投影させていきます。
1970年代以降は当時として珍しく保守派文化人として中川一郎、石原慎太郎、平沼赳夫といった当時の自民党議員らと共に政治活動にも関わっていくようになります。

ソ連崩壊やメディアの発達によって、今でこそ改憲論や日本文化・歴史の再評価ということを論じる文化人に大きな世間の抵抗はありませんが、70年代といえば日教組の力が非常に強く、ビートたけしの言葉を借りれば「左っぽいことを言える文化人が格好良いという風潮」があったため、当然の如く黛は日本音楽界と疎遠になっていきます。

1997年川崎市内の総合病院で、肝不全のため逝去。
68歳でした。

 

この《打楽器協奏曲》は、アメリカン・ウィンド・シンフォニー・オーケストラの委嘱作品で、1965年に作曲されました。
そのため英語による正式なタイトルは"Concerto for Percussion and Wind Orchestra"で、《打楽器とウィンド・オーケストラのための協奏曲》と訳されます。
オーケストラの他、2人の奏者によるティンパニ、4人の打楽器奏者による大太鼓、シンバル、タムタム、ボンゴ、鉄琴(ヴィブラフォン)、木琴(シロフォン)をフィーチャーしています。

緊張感に満ちたリズム、非常に良く耳に残る旋律やシンプルながらも巧みな二声の対位法(同時に流れる2つの異なるメロディの意味)が聴衆のワクワク感を誘います。
テレビ・ゲームをやったことのある人なら、「これぞ最後の戦い」と思わせるような音楽かも知れません。

本作はアメリカのオーケストラの委嘱作品ですが、実際には和の精神が非常に感じ取られる作品となっています。
まず初めに、オープニングのティンパニのリズムが歌舞伎の拍子木を連想させます。
それからお囃子を連想させる木管楽器のメロディ、アジア的な木琴の音色、それから雅楽由来の日本的なハーモニー等、黛敏郎が大事にした日本の伝統や文化が色濃く反映されています。

ファミコン世代の筆者にはなんとなく、すぎやまこういち氏の作品を彷彿とさせます。

 

それではお聴き下さい。
黛敏郎で《打楽器協奏曲》


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