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知ったかぶりのクラシック


数百年の時を経て蘇ったルネサンスの旋律

ジェスアルド
かなしや吾は死す

時代を先取るハーモニー!
数百年の時を経て蘇ったルネサンスの旋律!!

今回の記事はルネサンス時代の作曲家についてです。
カルロ・ジェスアルド(1566?-1613)はイタリア貴族と聖職者の一族に生まれました。
当時の日本は戦国時代から江戸時代初期、ヨーロッパの文化はルネサンス後期からバロック期へ移行しようという時代です。
バッハが生まれたのが1685年、モーツァルトが生まれたのは1756年なので、一般に親しまれているクラシック音楽よりも随分古い時代の作曲家だということが分かります。

非常に古い時代の生まれなので出生年月日には諸説あり、幼少期に関する事は後の時代の作曲家のように詳しく分かっていません。
ただ若い頃から音楽に没頭しており、リュート(イスラム発祥のギターの先祖)、ハープシコード(ピアノの前身、この時代にはピアノはまだ発明されていませんでした)とギターを演奏したそうです。

ジェスアルドの存在をイタリアで一躍有名にしたのは彼の犯した殺人事件でした。
1586年にジェスアルドはいとこで侯爵令嬢のマリアと結婚するのですが、2年後にマリアはとある貴族と不倫関係になり、それは世間の噂となっていました。

1590年にジェスアルドは出張に出かけると嘘の情報を流し、妻の気が緩んだ所をナポリの宮殿に乗り込み、妻と愛人の不倫現場を押さえ、何とベッドの上の二人を惨殺してしまいます。
(なお現代の芸能界では惨殺はされませんが、多額の慰謝料を請求され、レギュラー番組を降板させられるとのこと)
貴族階級であったためジェスアルド自身は罰せられなかったものの、報復殺人を恐れて、自分の城に引きこもるようになります。
一部資料によると妻殺しの後、自分の子供に疑心暗鬼になり殺害、復習に現れた義父も返り討ちにして殺害、とありますが詳しい事は分かっていません。

殺人事件の後の1594年、彼は当時音楽活動が盛んだったフェラーラに赴き、2年間の創作活動を行います。
ここで代表作となるマドリガーレ第一集を出版します。
またこの地で貴族令嬢のレオノーラと再婚し、再びジェスアルド城へと戻る事となります。

富豪であったジェスアルドは自作曲の演奏のため、多くの歌手や演奏家を雇いました。
しかしながら彼は引きこもりの上、新妻との関係も良好ではなく、鬱病にも悩まされたと言います。
そんな対人関係の悪さからか、彼の曲は当時ほとんど影響力が無かったとされていて、跡取りもなく孤独感に苛まれながら1613年に永眠。

時は流れて20世紀前半になり、彼の独創的で他に類を見ないハーモニーは再評価される事となります。
現代的に聴こえるそのハーモニーによって、ジェスアルドの作品は今日では多くの演奏会で重要なレパートリーとなっています。

 

《かなしや吾は死す》はジェスアルドのマドリガーレ第六集に収められていて、彼の作品の中では良く知られた曲となっています。
マドリガーレには幾つか種類があるのですが、このルネサンス期のマドリガーレとは16世紀以降、イタリアで発達した多声世俗歌曲のことを指します。
ここで言うところの『多声』とは複数の異なる旋律が同時に演奏されるという意味で、『世俗』とは当時支配的であったキリスト教意外の題材を扱うという意味です。

ルネサンス期の音楽はこの多声音楽が主流で、多数のメロディが同時に扱われるルネサンス音楽は現代人の感覚からすると、かなり複雑に聴こえます。
多声音楽の複雑さに加え、ジェスアルド独特の調性感、和声感、それから半音の使い方は当時の作曲家とは一線を画す独創的なものです。
そのため様々な作曲の試みが行われてきた20世紀初期でさえ、世の作曲家はジェスアルドの作品を新しい音楽の可能性として、こぞって研究をしました。

またジェスアルドのマドリガーレの題材は『愛』『死』『苦痛』といった耽美的なものがとりわけ多く、歌詞の多くは本人によって書かれたものではないかと推測されています。
《かなしや吾は死す》の日本語訳は以下の通りです。

私は死ぬ、ああ、苦しみの中で
そして私に生命を与える彼女は
ああ、私を殺し、助けにはなるまい

おお、なんと悲しい運命
私に生命を与える彼女は
ああ、私に死を与える

(訳・筆者)

暗く重い歌詞、安らぎとも不穏とも感じられる複雑に絡み合う旋律は、殺人を犯したジェスアルド自身の精神状態とも深く関わっているのでしょうか。

 

それでは聴いて頂きましょう。
カルロ・ジェスアルドで《かなしや吾は死す》


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