Watchburg Music
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知ったかぶりのクラシック


二十世紀に受け継がれるヘブライの血脈

ブロッホ
ヘブライ組曲

二十世紀に受け継がれるヘブライの血脈!
生涯を音楽教育に捧げた流浪の民!!

エルネスト・ブロッホ(1880-1959)はスイスのジェノヴァに何代にも渡って定住していたユダヤ人の家庭に生まれます。
9歳でヴァイオリンを始め、その後すぐに作曲も始めました。
ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイらに学び、その後はヨーロッパ各地を渡り歩きました。
20歳ではドイツのホーホ音楽院(後にフランクフルト音楽・舞台芸術大学へと派生)でイヴァン・クノルに作曲を師事、1903年にパリへ移ります。

1916年にはアメリカへ渡り、各地で教鞭を取るようになります。
1917年からマネス音楽院で教え、1920〜1925年までは新設されたオレゴン州のクリーブランド音楽院で主席音楽監督を勤めまることになります。
1924年には市民権を獲得し、その後はサンフランシスコ音楽院で教鞭を取ります。

このようにブロッホは音楽教師として引く手あまたで、門下にはクインシー・ポーターやロジャー・セッションズらがいました。

1930〜1939年は主にジュネーブで過ごしますが、1941年にはオレゴンへ戻り作曲活動に従事します。
その後カリフォルニア大学バークレー校の夏期講座を担当するようになりますが、1952年の教職引退後は再びオレゴンへと戻り、海岸近くの家で静かに作曲をして過ごします。

1959年、誕生日の約一週間前に癌にて永眠、78歳でした。

二十世紀前半にクラシック音楽は劇的な変化を遂げました。
ストラヴィンスキーの春の祭典は1913年に発表され、シェーンベルグの十二音技法は1920年頃に完成しています。

そんな中ブロッホの音楽は新古典派などと呼ばれていました。
ブロッホの代表曲には奇をてらったような作曲技法が用いられる事は少なく、流行り廃りに囚われない普遍的な響きを持っています。
十九世紀のロマン主義の影響が色濃い壮大なスケール感を有する曲が多いのに加えて、バロック音楽の形式を取り入れたりと、温故知新の実践は自らが教育者であった事と無関係とは言えないでしょう。

またブロッホの何よりの特徴は、《イスラエル交響曲(1916)》や《聖なる典礼(1933)》等、ユダヤ教や古ユダヤ民族の文化・風俗を曲のテーマに取り入れている点です。
メンデルスゾーン、シェーンベルグやショスタコーヴィチ等、ユダヤ人作曲家は数いれど、ブロッホのように音楽のテーマに自らのルーツを大胆に取り入れた有名作曲家はそう多くはありません。

そのためブロッホの音楽は新古典主義音楽に分類されますが、中東風であったりアラビア風に聴こえたりする事が多く、キリスト教文化の影響色濃いヨーロッパ的なサウンドとは一戦を画しているように感じられます。

《ヘブライ組曲》はブロッホの晩年、1951年に発表されました。
ブロッホは協奏曲や協奏曲風の組曲を多く残していて、このヘブライ組曲もヴァイオリンソロとオーケストラによる作品です。
ただ協奏曲の特徴であるソロとオーケストラの対比はあまり強調されておらず、ヴァイオリンソロの伴奏をオーケストラが担当しているという印象が強いです。

I. Rapsodie
壮大なスケールを感じさせるドラマティックな楽章。タイトルのラプソディー(狂詩曲)が示す通り、叙事的で民族的な表現が特徴。

II.Processional
タイトルのProcessionalは行列聖歌の意。オープニングのピチカートが印象的で、メロディも非常に中東的。

III.Affirmation
前二楽章に比べて非常に明るく快活な楽章で、エンディングはバッハの楽曲の終止を彷彿させる。

それでは聴いて下さい。
ブロッホで《ヘブライ組曲》


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