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知ったかぶりのクラシック


奇跡の神童にして、悲運の作曲家

ブーランジェ
哀しみの夜に

その早過ぎる死が音楽界に与えた損失は計り知れない!!
奇跡の神童にして、悲運の作曲家!!!

リリ・ブーランジェ(1893-1918)はフランスの音楽一家に生まれました。
父のエルネストはパリ音楽院で教鞭をとっており、過去にはローマ大賞を受賞した経歴もあります。

リリ、エルネスト以上に有名なのは姉のナディア・ブーランジェです。
6歳年上のナディアは作曲家の他に音楽教育者として非常に有名で、特に20世紀初頭クラシック後進国であったアメリカの作曲家達はこぞってナディアの元へ作曲法を学びに渡仏しました。
門下にはバーンスタイン、カーター、ピアソラ、ホロヴィッツ等、枚挙にいとまがありません。
《ラプソディ・イン・ブルー》や《パリのアメリカ人》で有名なガーシュインもまたナディアを訪ねて渡仏した作曲家の一人でした。

そんな姉を持つリリは先天性の臓器疾患を抱えていましたが、2歳から音楽の才能を発揮し、ピアノやヴァイオリン、チェロ等を弾きこなしました。
パリ音楽院に入学した姉に付き添い、4歳からパリ音楽院で聴講生として授業に参加し、後に本科の学生になります。
当初はナディアに作曲の手ほどきを受けていましたが、後にフォーレに師事にします。
フォーレもまたリリの才能を高く評価していたようです。

20歳の時、リリはナディアが4回挑戦しても叶わなかったローマ大賞をいとも簡単に受賞してしまいます。
ローマ大賞受賞後はイタリアで作曲活動に励みますが、健康状態の悪化に伴い帰国を余儀なくされます。
また帰国後は第一次世界大戦に従軍するフランス軍を支援するため、音楽的に本格的に取り組めた時間は非常に限られていました。

最晩年には未完成の作品を仕上げる事に尽力しましたが、最も力を入れていたオペラ《マレーヌ姫》はとうとう未完のまま、24歳で永眠。
リリの圧倒的な作曲の才能を間近で感じていたナディアは、リリの死を契機に作曲活動を辞め、音楽教育に力を入れようになります。

この《哀しみの夜に》は1918年に完成した交響詩(単一楽章でテーマやストーリーに沿って作られた楽曲)で、本人作の《春の朝に》と対を成す曲とされています。
どちらも主に3/4拍子で、Eの音が主音となっています。

《哀しみの夜に》を書いている時点でリリはベッドから起き上がる事が出来ずにいましたが、自身のペンで紙の上に楽譜を書ける状態ではありました。
その後病状が悪化してとうとうペンを握れなくなると、ナディアに口頭で音楽を書き取らせるようになったとされています。
ただリリの頭の中では全ての音がクリアに再生されていたため、全く躊躇なくナディアに楽譜を伝える事が出来たそうです。

《哀しみの夜に》はリリ自身によってチェロとピアノ、ピアノ・トリオ、オーケストラの3通りにアレンジがされていますが、今回紹介するのはオーケストラアレンジのものです。

1917年の春にはもう死期を悟っていたようで、音楽にもその精神状態が強く反映されています。
全体的にはゆったりとしたテンポですが、静かなパートと激しいパートのコントラストが圧巻です。
寂しげで非常に繊細な旋律が特徴的ですが、その後のフォルテ(音量の大きい)部分と終盤のクライマックスは切迫した運命を表現しているとされています。
しかしながら最後にはコーダ的な美しいヴァイオリンの旋律とハープの伴奏で安らかに楽曲が終止します。

 

それでは聴いて頂きましょう。
リリ・ブーランジェで《哀しみの夜に》


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