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知ったかぶりのクラシック


和声の新しい可能性を切り開いたピアノの詩人

ショパン
24の前奏曲 2番イ短調

ポーランドの英雄的音楽家!
病魔に侵されながらも、和声の新しい可能性を切り開いたピアノの詩人!!

 

フレデリック・ショパン(1810-1849)と言えば、たとえ音楽好きでなくても、日本人であれば誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。
彼は1810年、フランスからポーランドへ移住してきたニコラ・ショパン(1771-1844)の二人目の子供として生まれました。
当時識字率の低かったヨーロッパにおいて、フランス語が堪能であったニコラは貴族の家庭教師をしていましたが、フレデリックが生まれてまもなく、ワルシャワ学院でフランス語教師として教鞭を取るため、ショパン一家はワルシャワへ移住します。

ニコラがフルートとヴァイオリンを演奏し、またその妻ユスティナはピアノの演奏に長けていたので、当然幼いフレデリックも音楽に親しんでいました。
6歳の時に音楽の正式な教育を、チェコ出身のピアニスト、ヴォイチェフ・シヴヌィ(1756-1842)から受けるようになってから音楽の才能が一気に開花されます。
公開演奏を行い、最初の作品である2つのポロネーゼ(ポーランド風のダンス曲)を出版したのはショパン少年若干7歳の時でした。
この頃から神童と謳われたモーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになりますが、漫画やモノマネが大好きなユーモア溢れる少年だったという記録も残っています。

ワルシャワ学院、ワルシャワ音楽院を卒業したショパンはヨーロッパ音楽の中心である、ウィーンでピアニストとして演奏会デビューを果たし、音楽活動の場をポーランドから西ヨーロッパへと広げていきます。
この頃、メンデルスゾーンやリストといった音楽家らと親交を深めていくようになります。

1830年、所謂11月蜂起を発端としてロシア帝国とポーランド革命軍との戦闘が始まり、同郷の支援者が祖国へ戻る中、ウィーンに一人残ったショパンの演奏家としての活躍には陰りが見えるようになりました。
悲惨な戦争を国の外から見守るしかなかったショパンは、ポーランド人としてのアイデンティティを確立し、また作品も望郷の念に加え、非常にエモーショナルな作風となってきます。
この頃に作曲された作品の中には、かの有名なエチュード『革命(練習曲ハ短調作品10-12)』が含まれています。

革命期の1831年9月、ショパンはパリに活動の拠点を移しました。
ショパンの芸術性はフランスですぐに受け入れられ、多くの弟子を取るようになりました。
この頃、上述のメンデルスゾーン、リストに加え、ベルリオーズやアルカンのような作曲家から、ドラクロワといった画家まで、多くの芸術家や著名人と交友関係の幅を広げました。

楽譜の出版と弟子からのレッスン代で生活が潤うようになってからは、ホールで演奏会を行うよりも自宅のサロンでの演奏を好みました。
加えて、幼い頃から病気がちであった彼は、当時の一流ピアニストのように演奏旅行を行うのは難しかったようです。

1836年にはワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族の娘、マリアにヴォジンスキと婚約をしますが、この頃のショパンは非常に健康状態が悪く、またマリアがまだ若いということもあり、結局結婚は無期限の延期となってしまいました。
『別れのワルツ』の愛称で親しまれている『ワルツ 変イ長調』や『作品25 エチュード 二番へ短調(慰め)』はこの事実上の婚約解消の干渉から作られた作品とされています。
このようにショパンはバロック派や古典派の作曲家と異なり、自分の感情を作品に投影させてきました。

その後、リストの愛人宅のパーティーで知り合ったフェミニストのジョルジュ・サンドと公然の不倫関係になり、サンドとその二人の子供と行動を共にするようになります。
この頃のショパンは『24のプレリュード』や『英雄ポロネーズ』といった傑作を生み出していき、非常に創造性に富んでいました。
しかしながらショパンの病状は悪化をたどり、またサンドとの関係も徐々に冷めていき、1847年にはサンドと完全に決別をしました。

その後は病状もますます深刻となり、パリでの演奏家としての人気は衰え、弟子の数も減少していきました。
またフランスでは革命が進行中ということもあり、スコットランド人の弟子であるジェーン・スターリングの発案で、1848年4月にロンドンへ旅立ち、演奏旅行を行いました。
その後イングランド、スコットランドで演奏活動を続きますが、同年11月に再びパリへ戻ります。

既にレッスンを行う体力の無かったショパンは診察代も払えなくなるようになってしまい、家具を始めとする生活必需品を売らなくてはならないほどでした。
1849年9月にはジェーン・スターリングが家賃の肩代わりをした別のアパートに引っ越し、同年10月17日深夜、実姉と友人、神父に看取られて、38歳の若さでこの世を去りました。
死因は明らかになっていませんが、当時の資料と写真から、恐らく肺結核だったであろうと言われています。

 

ショパンは歌曲やオーケストラ曲も作曲しましたが、ピアノの詩人の異名をとるように、優れたピアノ作品を数々残しました。
ピアノ演奏の可能性を引き上げたという点において、しばしばショパンとリストは比べられますが、初期のリストが演奏技巧にこだわったのに対して、ショパンの作品は技巧的ながら聴き手の感情に訴えかける洗練された和声が魅力であり、死後150年以上経った今でも日本のテレビCM等で頻繁に使用されています。

ショパン作品の中で知名度が高いのはエチュードやノクターン、ワルツ等、ピアノという楽器の特性を活かした楽曲です。
しかしながらピアノの作曲技法だけではなく、ショパン作品の幾つかには、今までの作曲家が思いも付かなかったような革新的なハーモニーが含まれています。

この《24の前奏曲 2番イ短調》は1839年に完成された『24の前奏曲』のうちの1曲です。
ショパンは療養のため、サンドとその二人の子供と1838年〜1839年の冬をマジョルカ島で暮らしていたため、その時代に大部分が作曲されたと推測出来ますが、着手されたの正確な年月日は分かっていないため、この2番がいつ作曲されたかは謎のままです。

この場合の前奏曲とは何かの前奏ではなく、(前奏曲的な)非常に短い自由形式の曲のことを指します。
この曲は、24の全て異なる調を使用して前奏曲とフーガを作曲したJ.S.バッハへのオマージュであり、またショパン自身も全ての調を使用して24の前奏曲を完成させました。

この中の『2番イ短調』はショパン作品の中でも非常に革新的なハーモニーを聴くことが出来ます。
右手がメロディ、左手が伴奏というピアノの基本的なスタイルとなっていますが、まずはこの右手があまりピアノでは聴かれないフレーズです。

ピアノは構造上、管楽器や擦弦楽器(ヴァイオリンやチェロ等、弓を使って弾く弦楽器)と違い、一度弾いた音のボリュームを後からコントロールすることが出来ず、音量は必ず減衰します。
ただでさえ遅いテンポの中、減衰してしまう長い音が中心のメロディですので、非常にピアノ的ではありません。

左手は更に独特で、不気味な不協和音が少しずつ形を変えながら、一定のリズムで繰り返されます。
ピアノ曲にも関わらず調性感のある三和音が出てくるのは最後の三小節のみで、『イ短調』と銘打っているのに、イ短三和音(Aマイナーコード)が出てくるのは最後の1小節のみです。

このように伝統的な和声から外れたハーモニーはショパン以前にはあまり類がなく、こういった試みは19世紀後半から20世紀初期、晩年のリストや、ロシア5人組、フランスの印象派作曲家達によって開拓されていきます。
また前奏曲の中では他に、4番ホ短調も非常に斬新なコード進行が感じられます。

優れた和声感覚よりも、きらびやかなピアノ作曲技法に注目されがちですが、19世紀前半でありながら調性和音を外れた試みを行っていたところに、ショパンの魅力が発揮されています。

ちなみに、この前奏曲の『イ長調』は胃腸薬でお馴染みの太田胃散のCMテーマソングとなっています。
「胃腸に良いから、イ長調…」なんでしょうか。

それでは聴いて下さい。
ショパン《24の前奏曲 2番イ短調》


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